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■バッハ「マタイ受難曲」     jeudi 1er mars 2012 [■Cinéma et Musique]

サントリーホールに、バッハの「マタイ受難曲」(聖トーマス教会合唱団・ゲヴァントハウス管弦楽団、トーマス・カントール:ゲオルク・クリストフ・ビラー)を聴きに行く。

今回はドイツ語を追うのをやめ、日本語の翻訳に従って経緯を追うことにした。イエスの磔刑に至るユダの裏切りと民衆の愚は極めて現代性を胚胎しており、無責任で短絡な認識はそのまま現代人像
に代替できる。
そして、39番のアルトにより現わされるイエスの絶望はバッハの大悲であり絶望であるともいえよう。

マルティン・ペッツォルトのテノール(福音史家)は素晴らしく、イエスの失意、民衆や権力の表情を明瞭に浮かび上がらせていた。これまで聴いたテノールの中では声量や表現力が一等抜け出ていたと言えよう。自分のパートが終わるとバスやアルトと目を合わせていたことなど、独唱陣を引っ張っているようだった。

2008年に続く来日は、聖トーマス教会合唱団の創立800周年記念公演であるそうだが、声変わり前の少年たちの合唱は至高の楽器と言ってもよく、それだけで陶酔の境地に誘い込まれるようである。美少年好きのBくんは垂涎であったのだが次回ということで。(国内の素人合唱団は定年を過ぎた中高年で組織されたり、小学生にイエスの時代の衣装をさせたり姑息なまねをしているが、愚かとしか言いようがない)

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■オペラ『ナブッコ』    samedi 18 fev,2012 [■Cinéma et Musique]

二期会のオペラを上野の東京文化大ホールに見に行く。ヴェルディの28歳の時の作品『ナブッコ』。バビロニア王ナブッコの物語。
ヴェルディの若い時の作曲だが、19世紀イタリア・オペラの形が色濃く出ていて、2時間半オペラを楽しむことが出来た。
ただ、眼鏡を忘れたため今一つ遠くが見えないという致命的な失敗があったため、演者の表情が不詳であったのが残念。

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■総天然色ウルトラQ   samedi 4 fev,2012 [■Cinéma et Musique]

あ~忙し忙し、昨年前巻がでた「総天然色ウルトラQ」の後巻が送られてきたので、今日は1日それを見ていたのだけれど、この時間にになってBSプレミアムで5年前にやった「怪奇大作戦」セカンドファイルをやり始めたじゃないか。

モノクロの「ウルトラQ」に着色、カラー化した「総天然色ウルトラQ」は、現在の鮮明な映像とは言えないが、いかにも昭和30年代のフィルムのようで郷愁を掻き立てられ、尚且つカラーに慣れた眼にはちょっと見るのに辛くなってしまったモノクロの画面から得られない安心感をもたらしてくれる。(こういう場合、モノクロフィルムのほうに安心感を惹起されると書くべきなのだろうが、モノクロをカラー化して想像せねばならないことが脳に負荷を与えているのだということを知らねばならないだろう)

ウルトラマンでは茶系統だったケムール人の身体が実は〇〇色だったり、悪魔っ子の女の子の着ていたチャイナ服が〇〇色だと40年後に知らされるなんて、思いもよらなかった。


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箱入りだからブックエンドにもなります。

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●バッハ「ミサ曲ロ短調演奏会」    jeudi 5 jan,2012 [■Cinéma et Musique]

阿佐ヶ谷の日本基督教団・阿佐ヶ谷教会でおこなわれた、慶応大学〈慶應義塾コレギウム・ムジクム〉によるバッハの「ミサ曲ロ短調演奏会」を聴きにいく。

独唱はプロの声楽家も含まれる専門の人たちが務めていたが、合唱・オーケストラは学部学生を中心に構成された大学の演奏会だった。プロの演奏家が行う場合には、それに釣り合うように合唱団員の人数も揃えているが、コンサートホールに比べ大きくない教会では違和感を感じさせない人数構成であった。

kirie eleison. 主よ、憐れみたまえ(マタイ20,31)
荘厳な合唱で始まる曲は端緒からバッハの宗教世界に我々を誘い、終章までバッハの独特の曲相を繰り返し展開してゆく。バッハの音の構築は数十年にも亘って連続して利用され完成度を増してゆく。それはあたかも真理の円環がひとつの作品や論攷で完成されるのではなく、作品の重層的な論調で成り立つのと同じように、「バッハの世界」として円環が閉められて行くのだ。

「マタイ受難曲」と双璧をなす「ミサ曲ロ短調」であるが、キリストの受難に場面を限定し物語性を強調した「マタイ受難曲」にくらべ、抽象化し「普遍性」を前面に出るように編成されているといえようか。

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開演時は満員状態になる。

教会で聴くバッハはやはり特別であった。旧臘残念な演奏会後、急遽検索したにも拘らず近所にこのような宝石を発見できるとは。探せば目白やそこいらにもあるのではないか。
 


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●西本智実指揮「第九」       jeudi 29 dec,2011 [■Cinéma et Musique]

有楽町の東京国際フォーラムに、ベートーヴェンの「第9番合唱付き」を聴きに行く。

人気の高い西本智実さんは、しなやかでダイナミックな動きがみていて清々しい。僕の偏見はその指揮棒を捧げる動きに欲望機械となって陶然となるが、目的をもった炸裂した動きに圧倒されてしまう。躍動感溢れる指揮ぶりが人気が出るのは宜なるかなである。

しかし、演奏会の外縁は最悪である。
演奏が始まる前ステージ脇のモニターから協賛のスズキのテレビCMが流れ続ける。そして、主催のTOKYOFMのアナウンサーが満足げに進行を進めてゆく。演奏者が着席し、指揮者がステージに現れた後、タレントの山田邦子さんがオペラ歌手よろしく歌いながら登場し一頻時間を潰し、自分も歌うのだと宣言する。
壇上の合唱とは別に、客席後部にステージに上がれない一般の参加者が控える。演奏のステージの音は籠り、後部から聞こえる合唱の声はぼやけてメリハリがない。

合唱が終わると、壇上にいたタレントや女優などの芸能人がステージの前面に並び、一般合唱参加者と共有した卑劣な共犯関係に満足し欺瞞的な笑みを浮かべている。
芸能人はこういところに立つ資格があるのだろうか。2011年にあってこんなに醜い集合体があるだろうか。演奏をぶち壊しにする反吐が出そうな時間だった。

最初からこのような弛緩した演奏会と分かっていたなら、もっと少人数でもよい「歓喜の歌」を探すべきだった。いや初めからロ短調ミサ曲を探すべきだった。

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■映画『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』  mardi 20 dec,2011 [■Cinéma et Musique]

ユーロスペースで、イラン・デュラン=コーエン監督『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛(Les Amants du Flore)』を観る。ボーヴォワールの若い時から、オルグレンとの別離までを追った作品。

もし、サルトルとボーヴォワールの話でなければ最後まで観て居なかったかもしれない。サルトルとボーヴォワールの話だから陳腐な映画でも我慢できたということになろうか。結果が最初から分かった、まったく面白くもない映画だった。

ボーヴォワールの娘時代の女友達Zaza、教え子Orga(『招かれた女』のグザヴィエル)、その妹Wanda、『或る戦後』でMと書かれたDoloresなど、『娘時代』『女ざかり』『或る戦後』での登場人物が総登場する。ボーヴォワールの家庭環境もわかるが、では、Heleneは何処へいったのか。

製作をみると2006年となっているのは、1905年生まれのサルトル生誕100年に沸いたフランスの便乗効果を狙った作品だというくらいは考えが浮かぶ。映画としては意味のない屑のようなものといえよう。

1949年『第二の性』出版で女性の解放運動が明確になって60年、女性の立場の変遷は明るいだけでもないことは誰でもわかっている。映画の射程が、運動の起源を一人の女性に帰するほど短絡でもナイーヴでもないと思う。若いボーヴォワールの青春の蹉跌も必要であるが、60年たった今必要なことは、1970年に343人の女性に宣言された「私は堕胎した。すべての女性のために堕胎の権利を私は要求する」に参加したボーヴォワールを何故描かないのか。それが監督の狭窄なのかどうかは分からないが、オレグレンの愚鈍をみるよりもランズマンの聡明を通してボーヴォワールの葛藤と戦いを描くべきだろう。

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    1986年4月15日ボーヴォワール死去を伝えるliberation紙

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唯一の救いはAnna Mouglalis


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■大見佳子個展    samedi 19 nobembre 2011 [■Cinéma et Musique]

東京駅に着いた後そのまま国分寺に向かい、昨年につづき国分寺くるみギャラリーで「大見佳子個展」をみる。
ちいさなギャラリーに100号の巨大な油彩と小品が並ぶ。

花弁を切り取った抽象画風の画面が特徴的な絵ですが、乳白色の柔らかい色調にマゼンダーが含まれる。形象ではなく、色彩から画家の安定した精神性が感じられる。

今年になって描かれたものが大部分だが、3月11日からまもない日付のものも何枚か見られた。震災直後に対象と対峙する作業を引き受けたことに敬意を抱かざるを得ない。

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●マレイ・ペライア ピアノ・リサイタル   samedi 5 novenbre 2011 [■Cinéma et Musique]

サントリーホールでマレイ・ペライア Murray Perahia の演奏会を聴いてきました。

演目は、
・バッハ フランス組曲第5番ト長調
・ベートーヴェン ピアノソナタ27番ホ短調
・ブラームス 4つの小品
・シューマン 子供の情景
・ショパン 24の前奏曲第8番嬰ヘ短調、マズルカ第21番嬰ハ短調、スケルツォ第3番嬰ハ短調

バッハのフランス組曲から始まりましたが、ロマン派のバッハとでもいえるでしょうか、情緒的な音が繰り広げられました。それはベートーベンのソナタにも感じられ、ベートーヴェンの持つ硬質な先入観を軽く転回してしまいました。その技巧は後半のシューマン、ショパンで如何なく表現され、所謂甘美な、稚拙な言葉でいえば女性的な空間がもたらされました。
そして、アンコールで演奏された「別れの曲」とシューベルトで頂点に達した感がありました。

グレン・グールド、2月に「平均律第2巻」を聴いたアンドラーシュ・シフにしても、ペダルを使わないので一音一音が際立ち、音ひとつに志向するバッハのピアノに慣れてしまったので、ペライアのバッハに違和感を感じてしまいました。
しかし、ロマンティックなショパンを聴こうと思うならペライアは屈指の演奏者でしょう。

リヒテルのピアノを愛するBくんは演奏全体が荒いように感じられたとのことです。やはりコンサートホールでやる演奏は作曲者の音を追えないのでしょうか。

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休憩の調律

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終演のあと「オーバカナル」で。


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■グールドのバッハ      mardi 9 aout 2011 [■Cinéma et Musique]

朝日カルチャーセンター、角倉一朗氏の「グレン・グールドの肖像(3)バッハ解釈」

グールドのピアノ演奏は独特な様式で時に特異な解釈だと謂われる。バスがあいているときにその手は指揮をしているかのように虚を漂い、誰でもが言葉に上せるように低い椅子でハミングをしながら演奏する。しかし演奏技術に難癖をつけようもなく、手首を使った軽い打鍵で完璧な指のコントロールを見せ、右ペダルを極端に忌避し独立した音を聞かせる。

多くの演奏家の解釈が、時代の方法論、演奏習慣のエピステモロジーのなかに立っていることと隔絶し、グールドのピアノはバッハのスコアそのものを音として表出すると言ってよいだろう。こうやるべきだ、巨匠と呼ばれる誰それはこういう弾き方をしていたなどという評はグールドには全く意味がない。唯一言えることは「バッハはこう描いている」ということ、つまり指摘できるのはミスだけであり、10以上もまえのテイク況してや数年前の録音を編集し完璧な作品を作り出すグールドの前でその言及も的外れのものとなる。また、未熟な技術や音楽の完璧性を突き詰めることを怠った欺瞞を、演奏会の一回性だとか情熱だとか稚拙な言説を重ねる行為とは全く逆に位置するのである。

 


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■バッハ「ミサ曲ロ短調」    samedi 23 juillet 2011 [■Cinéma et Musique]

バッハの『ミサ曲ロ短調』(J.S.Bach Messe in h-moll BWV232)について、礒山雅・国立音楽大学教授のお話を聞く。

礒山さんは日本に於けるバッハ研究の泰斗であり、バッハ・コレギウム・ジャパンの鈴木雅明氏とともにバッハの各曲を聴く場合指針とする方である。

『マタイ受難曲』(東京書籍 1994年)の逐条解説は精緻を極め、バッハの生きた時代の政治的宗教的背景説明から音楽的技法等初心者がマタイ受難曲を理解するだけでなく、その論攷は学究領域において確固たる位置を占めていると言えるだろう。(一方で平均律の研究書として、市田儀一郎 『バッハ平均律クラヴィーア』というような浩瀚な研究書があるが、これは少なくとも楽器を弾かない私には難解でまったく手に負えない)

その礒山さんが、40代の時は「マタイ受難曲」でよかったが、齢を重ねると「ミサ曲ロ短調」の普遍的音楽性が重要に見えてくると仰られ、最近の研究の方向性を確認された。この謂ってみれば「回心」のようなものは、バッハが実際に生きた年齢での作曲作業と同じであり、思索からもたらされる観念性の戯画的幼児性が、経験からもたらされる実践的昇華へと生成変化してゆく様を表している。「マタイ受難曲」など具体的な物語はアリアや合唱部など感情を込める部分が顕在化しているが、逆に「ロ短調」はマタイと比べてアリアと合唱が少なく謂ってみれば夾雑物が捨象されている「ミサ曲」の完成形といえるのではないか。

DVD
●カール・リヒター ミュンヘン・バッハ合唱団・管弦楽団 1969年
●ゲオルグ・クリストフ・ビラー 聖トーマス教会合唱団 ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 2000年
●ブロムシュテット ゲヴァントハウス室内合唱団 管弦楽団 2005年
●ジョン・ネルソン パリ・ノートルダム聖歌隊 アンサンブル・オルケストラル・ド・パリ 2006年(カトリック)


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