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■ドゥルーズの哲学 出来事の平面②      samedi 26 avril 2014 [■Pensée]

朝日カルチャーセンター2014年4月期
ドゥルーズの哲学―出来事の平面をめぐって―②江川隆男

身体=物体(深層)/非身体的なもの(表面)
        名詞      動詞


(1) アリストテレス 10のカテゴリー
   ①実体/⑨量、質、関係、場所、時間、位置、持前、能動、受動

(2) 初期ストア派の4つのカテゴリー
      基体(質量、性質なき実体)、性質、 様態、関係(あるものに対する関係)
    ↑                      ↑
    アリストテレスの10のカテゴリ    存在の仕方・非物質的なもの
                           存在の関係の仕方
                                               aはbより大きいが、aはcよりも小さい(生成変化、
                                                 ~になること)

(3) 初期ストア派の4つの非物体的なもの
   表現可能なもの(レクトン)、空虚(ケノン)、場所(トポス)、時間(クロノスとアイオーン)

(4) 存在の仕方:属性:動詞  とりわけその不定詞によって表現

(5) 二つの時間:クロノス(物理的時間) と アイオーン(出来事の時間)
            ↑               ↑
           分節可能な時間       分節できない時間
           アリストテレス         大森荘蔵
           運動の数

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■ジャン=クレ・マルタン講義     samedi 2 mars 2013 [■Pensée]

新宿でジャン=クレ・マルタンの講義「ドゥルーズ/ガタリの友情と哲学―差異の中にある反復?」を聴く。

マルタンさんは『ドゥルーズ/変奏♪』を上梓しており、冒頭ドゥルーズからの手紙を紹介している。
・哲学を概念の発明ないし創造であると定義すること、すなわち哲学を観想的でも、反省的でも、伝達的でもなく、創造的な活動であると定義すること。
・多様体と特異性は本質的に結ぶついている。「リゾーム」は多様体を示すには最良の言葉です。
・超越的経験論は、「実験する」べきものなのである。

講義ではスピノザを援用しながら「友情」(アミチエ)について論を進めていくが、「私の生の遂行にとって最も有益なのは他の理性的個物であって、それはあたかも友情的関係が私の救済と係わっているかのようだ」と纏める。友情=救済は生成変化のである。

「ドゥルーズにおける、不定法の動詞の重要性が生じる。『赤くなる』『緑になる』、これら生成の動詞は真のスピノザ的『属性』なのであり、そのもとに諸様態が陳列されるような合成のベクトルである」

ドゥルーズを読む場合、ニーチェ以上にスピノザからの影響を考えねばドゥルーズは分からないのである。

会場の外には『フェルメールとスピノザ <永遠>の公式』(以文社)が置かれてあったが、ここまでフェルメールが進出しているとは…


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■シンポジウム「ドゥルーズ・知覚・身体」    samedi 22 decembre 2012 [■Pensée]

立教大学公開シンポジウム「ドゥルーズ・知覚・身体」(立教大学新座キャンパス 13:00~19:00)

問題提起:宇野邦一
報告:松本潤一郎「また消えるために―いくつもの召命」
    江川隆男「器官なき身体と超越的感性について」
    廣瀬純「革命的になる―不可能性の壁を屹立させ、それに強いられて逃走線を描出する。
         あるいは、可能性=商品と決別。」
    堀千晶「無知の砂漠―皮膚・補綴・ダンス」
    佐々木中「ジル・ドゥルーズにおける身体と政治―その美的決定(ドグマティック)

宇野邦一さんの陰気なお話をきいていて、その退屈さに耐えられず前半で席を立ちました。学者先生は物憂げに自分の学習経験を語るのが仕事なんでしょうか。ヴァンセンヌのドゥルーズとの精神的記憶を学生に話すのが教育なんでしょうか。


江川さんの身体論は、ドゥルーズの『スピノザ』の冒頭で言及されていることと同じ。
「スピノザは哲学者たちに<身体>という新しいモデルを提案する。身体をモデルに据えてみたまえ、『ひとは身体が何をなしうるかをしらないのだ……』と。無知を告げるこの断言には挑発が含まれている。私たちは意識やそれがくだす決定について、意思やそれがもたらす結果について語り、身体を動かす方法や、身体の情念[受動的情動]を制する方法については無数の議論をかさねながら―そのじつ身体が何をなしうるかは知りもしていない」
   (ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』 平凡社ライブラリー p33)

人を殴る行為は、道徳的(moral)な「善/悪」の問題で「悪い」と判断されるが、腕を回す身体にとって倫理的(ethics)な「よい/わるい」では身体の行為として「良い」のだ。つまり身体の快楽と斯くあるべしという抑圧的命令は相反するものなのだ。スピノザ、ニーチェ、ドゥルーズという反哲学(西洋理性)の系譜の対極にある廣松さんへの言及があったが、スピノザの身体論の起点である「よい/わるい」から廣松哲学への考察はややズレがあるようだが、ポンティの身体論とともにもう一度読んでみたい。


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▲立教大学新座キャンパスのチャペル。

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■ドゥルーズの哲学④    [■Pensée]

朝日カルチャーセンター
ドゥルーズの哲学の核心は、「超越論的経験論」あるいは「高次の経験論」という新たな超越論的哲学の企てとして捉えられる。超越論的哲学である限り、それは「条件づけられるもの」を超えて、これを条件ずけている「条件」そのものについて、つまり「経験を超えて経験の条件」そのものについて探査し、論究するが、重要なことは、ここで言われる「条件」とは、カントが主張するような「経験一般の可能性の条件」として、したがって「条件づけられるもの」に対する単なる外的な条件づけの原理として捉えられるものではなく、「現実的経験の条件」として、つまり「条件づけられるもの」の「内的発生の原理」として定義されるものであるという点である。

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■ドゥルーズの哲学②   mercredi 7 novembre 2012 [■Pensée]

朝日カルチャーセンター
「ドゥルーズの哲学」超越論的経験論読解 江川隆男・首都大学東京助教
第2回 超越論的原理と系譜学的原理との差異

●諸能力の
   経験的使用 ― 共通感覚(常識) sens commun → 可能性(スピノザ:こんなものは存在
                                           しない)
   超越的行使 ― 逆感覚 (逆識)  para sens    → 必然性
    (最初に、また最初から思い出される思い出されることしか可能出来ないもの) →感覚

●感性 → 
記憶 → 思考(思惟)
    →が問題提起であり、理念idea=倫理=強度、量質
    出会いの対象 感官のなかに感性が生じる

●系譜学
            総合(産出・倫理転換)
    結果・現象  ←     原因・原理
             →
            分析
    分析と総合は別のものではなく産出、価値転換
    現象学的還元は何も変わっていない
    分析の上で分かって「神」が総合する

●可塑性 plastiques
    同一性  条件(不変であるもの・普遍・無差異)  → 条件づけられるもの
          条件づけられたものにとって、条件は外在的でしかないのでは?
          
          犬と、個々の犬
          犬という概念は、1匹1匹違うはずで、概念が変化するものでなければならない。

          「存在の一義性」について、ドゥルーズは「神」とし、「神」は「無差異」としなければ
          ならないという疑問



             


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■ドゥルーズの哲学①   mercredi 17 octobre 2012 [■Pensée]

朝日カルチャーセンター
ドゥルーズの哲学 「超越論的経験論」読解 江川隆男・首都大学東京助教

高次の経験論(empirisme superieur)        }①条件を条件づけられるもののコピーに
                                 }  しない
   ↓                              } 
超越論的経験論(empirisr transcondantal)    }②可能的経験ではなく、実在的経験の
                                 } 条件を見出すこと

     →出会いの対象   特異性 [このもの]
    idea、理念


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■ドゥルーズ=ガタリの哲学3   mercredi 29 aout 2012 [■Pensée]

「ドゥルーズ=ガタリの哲学3 『批判(精神)と臨床(身体)』」 江川隆男
内面性の平面のために

平行論

有機的身体から器官なき身体へ/言葉の言語活動から観念の思考活動へ

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■D-Gの思想②ガタリの哲学   mercredi 1er aout 2012 [■Pensée]

朝日カルチャーセンター「ドゥルーズ=ガタリの思想」第2回「ガタリの哲学―複写術から地図作製法へ」
講師:江川隆男

■超越論的領域を経験的な表象像から「複写すること」を批判する立場 → 超越論的経験論
 能産的自然を身体的に領土化された大地のうえに描き出す「複写術」を破壊する立場 → 器官なき身体の哲学

■「現代の人間は、根本的に脱領土化された存在である。現代人の生まれながらの実存の領土― 身体、身の回りの空間、家族、宗教といった ―は、一定の土地に固定されているのではなく、絶えず変転する不安定な表象の世界に結びついている」
        (フェリックス・ガタリ「エコゾフィーの実践と主観的都市の復興」『フェリックス・ガタリの思想圏』)

■「来たるべきエコロジー的意識は、空気の感染、地球温暖化による悪影響、多数の生物種の消滅といったような環境要因に取り組むことだけで、満足してはならない。社会的領域や精神的領域におけるエコロジー的荒廃にも関心を向けなければならないだろう。集団的な心性や習慣を変えなければ、物質的環境に関わる<回復>の措置しか取れないだろう」
        (ガタリ「エコゾフィーの実践と主観的都市の復興」)

■4つの存在論的カテゴリーあるいは4つの脱領土化の機能素
 ①「機械状の系統流 Φ」 Phylum machiniques
 ②「物質的で信号的な流れ F」 Flue materiels et signaletiques
 ③「実存的領土 T」 Territoires existentiels
 ④「非身体的領域 U」 Univers incorporels

■「多様な存在者の背後にあるのは、一義的な存在論的土台などではなく、諸々の機械状の界面からなる一つの平面である。存在は、現働化した言説的な構成要素(物質的で信号的な<流れ>、機械状の<系統流>を、非言説的な潜在的構成要素(非身体的<領界>と実存的<領土>に結びつけるような、無数の言表行為の作動配列を通して結晶化する」
         (ガタリ「カオスモーズ」)
■「結局、器官なき身体に関する偉大な書物は「エチカ」ではないだろうか。属性とは、器官なき身体のタイプあるいは種類であり、実体、力能、生産的母胎としての強度<零>である。様態とは生起するすべてのもの、すなわち波と振動、移動、閾と勾配、一定の実体的タイプのもとで、ある母胎から産出される強度である」
         (D=G 「ミルプラトー」)

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6470256.gif                                                                      Guattari 来日の時のサイン
                                              


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■「ドゥルーズ=ガタリの哲学」①      mercredi 18 juillet 2012 [■Pensée]

新宿朝日カルチャーセンター
江川隆男『ドゥルーズ=ガタリの哲学』①「ドゥルーズの哲学―イマージュなき思考」

スピノザの3種の認識論
 第1種 感情→別の仕方で感じること
 第2種 概念→別の仕方で考えること
 第3種 直観→別の仕方で知覚すること      →
善/悪で考えるのでなく、良い/悪いが発動

フーコー『快楽の活用』(田村訳 新潮社 pp15-16)
「はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。(中略)しかし、哲学--哲学の活動、という意味での--が思索事態への批判作業でないとすれば、今日、哲学とはいったいなんであろう?自分がすでに知っていることを正当化するかわりに、別の方法で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とは何であろう?

●反同一性の哲学
 ・同一性の哲学 → 差異の哲学
 ・経験論的超越論 → 超越論的経験論
  超越論的圏閾は、カント的な可能的経験の〈条件付け〉の原理ではなく、経験されることしかできないような最もア・ポステオリな実在的経験論の〈条件〉、すなわち〈経験サレルベキモノ〉の〈条件〉である。
 ・多義的存在論 → 一義的存在論

●新たな批判哲学
 ・諸能力の調和的一致 → 諸能力の不調和的一致
 ・経験から複写された諸条件 → 経験からの複写が不可能な諸条件
 ・存在のヒエラルキー → 存在の内面的平面

●倫理学―反道徳主義の哲学
 ・イマージュなき思考
 ・批判と創造の条件
 ・20世紀の批判哲学から21世紀のエチカへ
 

書いておけば、このブログのタイトルの横のイタズラ書きは誰かというと…ガタリのものです。


 


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■「放射線を知る」~放射性セシウム  samedi 30 juin 2012 [■Pensée]

「放射能を知る」シリーズ「農業生態学における放射性セシウムの動態」という題で、東大大学院農学生命科学研究科・根本圭介教授のお話を聞く。氏は稲の生態の専門家であり、原発事故により放出された放射性セシウムの影響などという愚かなことはまったく素人であったという。昨年秋のの米の放射性物質調査で検出限界以下の数値となり終息に向かうかと思われたのだが、9月二本松市で玄米から500ベクレルの数値が出て大問題となっているというのである。

■イネと稲作の生態的な特殊性
・イネは水生植物として、養分吸収をふくめた生理的な仕組みが特殊化している
・水を蓄える水田生態系そのものが、物質循環にかんして独自の特徴を持っている
・畑作のチェルノブイリ事故の類推だけでは解決できない独自の問題がある

1.イネのセシウム吸収は品種によって違うのか?
2.放射性セシウム吸収のおける土壌の重要性
  ・セシウム添加した褐色森林土で育てたイネは、同じくセシウム添加した灰色低地土のイネの8倍から10倍のセシウムを吸収
  ・灰色低地土はセシウムを強く吸着し、その結果イネがセシウムを吸収しにくくなっている
3.規制値レベルのセシウムを吸収したイネの特徴
  ・二本松市の500ベクレルの玄米がとれた水田は山間地の谷地田
  ・盛夏にセシウムを集中して吸収している。
   ①夏季に水田土壌なかの有機物の分解が進み、多量の放射性セシウムが放出されそれをイネが吸収

   ②夏季に山林の落ち葉の分解が進み、放射性セシウムが放出、潅漑水が水田に流入し吸収
4.土壌からのセシウム吸収と水からのセシウム吸収
  ・セシウムはカリウムに似た性質でイネに吸収されやすい
  ・福島原発から遠い地域の玄米で80ベクレル(土壌は160ベクレル)という数値がでる。郡山の土壌を用いた試験で、60000ベクレルの土壌で栽培して80ベクレルの数値が出る。→水耕による放射性セシウムの摂取の異常な高さ
5.カリウムによるセシウム吸収の抑制効果
  ・カリウムを与えるとセシウムの吸収は10分の1程度になる
6.農業生態学の中の放射性セシウム
  ・セシウムが付着した葉を湯、硝酸で洗浄しても5%も溶出できない。山林の落ち葉についたセシウムは残留しているということ
7.福島県伊達市で試験作付

●放射性セシウムが長期に亘って山林から供給されることになり、福島の稲作は基準値(100ベクレル)を大幅に超える恐れがある。半減期30年というスパンは当然考慮に入れなければならないだろう。そのなかで安全な稲を継続して微視化して行かなければならない。原子力の根本的な危険性ならびに東京電力の犯罪は計り知れない。


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