■映画『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』 mardi 20 dec,2011 [■Cinéma et Musique]
ユーロスペースで、イラン・デュラン=コーエン監督『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛(Les Amants du Flore)』を観る。ボーヴォワールの若い時から、オルグレンとの別離までを追った作品。
もし、サルトルとボーヴォワールの話でなければ最後まで観て居なかったかもしれない。サルトルとボーヴォワールの話だから陳腐な映画でも我慢できたということになろうか。結果が最初から分かった、まったく面白くもない映画だった。
ボーヴォワールの娘時代の女友達Zaza、教え子Orga(『招かれた女』のグザヴィエル)、その妹Wanda、『或る戦後』でMと書かれたDoloresなど、『娘時代』『女ざかり』『或る戦後』での登場人物が総登場する。ボーヴォワールの家庭環境もわかるが、では、Heleneは何処へいったのか。
製作をみると2006年となっているのは、1905年生まれのサルトル生誕100年に沸いたフランスの便乗効果を狙った作品だというくらいは考えが浮かぶ。映画としては意味のない屑のようなものといえよう。
1949年『第二の性』出版で女性の解放運動が明確になって60年、女性の立場の変遷は明るいだけでもないことは誰でもわかっている。映画の射程が、運動の起源を一人の女性に帰するほど短絡でもナイーヴでもないと思う。若いボーヴォワールの青春の蹉跌も必要であるが、60年たった今必要なことは、1970年に343人の女性に宣言された「私は堕胎した。すべての女性のために堕胎の権利を私は要求する」に参加したボーヴォワールを何故描かないのか。それが監督の狭窄なのかどうかは分からないが、オレグレンの愚鈍をみるよりもランズマンの聡明を通してボーヴォワールの葛藤と戦いを描くべきだろう。
1986年4月15日ボーヴォワール死去を伝えるliberation紙
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