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■「千手」「鵜飼」     samedi 14 juin 08 [■能狂言]

観世九皐会6月例会(神楽坂・矢来能楽堂)
能「千手」(シテ・鈴木啓吾、ワキ・工藤和哉)、「鵜飼」(シテ・坂真太郎)
狂言「清水」(シテ・野村万作、アド・野村万之介)

「千手」「鵜飼」とも能の演目としてはたいへん有名なもの。
「千手」の終幕、刑場の露と消えることが決まった重衡と、一夜の宴の後別れるに至った巴の刹那の邂逅は、数百年に亘って観賞に堪えた珠玉のシーンである。
「鵜飼」は言うまでもなく殺生を続けた鵜使いの亡霊が安房の僧侶(日蓮という俗説もあるらしいが)の弔いで成仏するという話である。簡単な構成であるが、石和川周辺で行なわれていた鵜飼いの様が垣間見ることが出来て興味深い。

狂言はなんと言っても、野村万作師の太郎冠者の鬼に化けた声色の変化が楽しい。野村万作師の所作を堪能するだけで価値があるというものである。

DSC03471.JPG 矢来能楽堂にて


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■「熊野 松風 米の飯」       dimanche 11 mai 08 [■能狂言]

観世九皐会5月定例会(神楽坂・矢来能楽堂)
能「通盛」(シテ・長沼範夫、ツレ・観世喜正)、「熊野(ゆや)」(シテ・長山禮三郎、ツレ・長山耕三)
狂言「口真似」(シテ・野村万蔵)
仕舞「道明寺」(永島忠侈)、「杜若」(弘田裕一)、「善知鳥」(観世喜之)

010401.jpg
能楽では、「熊野 松風 米の飯」といわれ、春の「熊野」、秋の「松風」はご飯と同じで飽きが来ないといわれている。それは見る側だけでなく、演者の方でも演ずれば演ずるだけ能楽の真髄に触れることになることだといえるだろう。直ぐにでも母の元に帰りたい熊野が、宗盛の花見の宴に連れて行かれる車の中で、東を見上げて悲しみに暮れる様は幾度見ても張り裂けんばかりの所作である。また許されて関東に下る時に京の空を見上げる仕草も格別である。

 



 


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■「弱法師」     dimanche 10 fev.08 [■能狂言]

観世九皐会・2月定例会、神楽坂・矢来能楽堂。
能「絵馬」(シテ・弘田裕一)、「弱法師」(シテ・観世喜正)、狂言「入間川」(シテ・三宅右近)
「絵馬」は伊勢神宮の絵馬の行事を題材にしている段と、「古事記」の天照大神の天岩戸隠れを題にした急の段とに別けられる。ともに春の訪れと泰平の世を現すお目出たいものを一本化した作であった。しかしながらこのような説明的な能はよしあしの対象外になってしまう。
「弱法師」は継母の讒言に因って放逐された盲目の少年が無事に父親と再会し里に帰るという、現在演じられているお能の中でも有名な演目である。悲しみで盲目となり乞食の境涯に堕し、弱法師となった身は極めて不安で哀れに舞われなくてはいけない。四天王寺の鳥居を探り当てる場面や梅の花の香りを利くところなど観世喜正師は上手に演じておられた。そのうえで付言すれば、先代の観世喜之師は鳥居の柱を抱くように探ったと仄聞する。喜正師も杖を探すところなど這いまわるくらいに演じても良かったのではないか。各自の演じ方の違いだが、それくらい自由に自分の色を出してもよいだろう。

ひとつ気になったのは、通俊(父)と弱法師(俊徳丸)が梅の花弁でやり取りする場面。シテ「花の香がきこえ候」、ワキ「マガキの梅の花、弱法師が袖に散り掛かかるぞとよ」、シテ「うたてやな難波津の春ならばただこの花と仰せあるべきに」と続くところ。最初のシテの「花」を「ウメ」と発声してしまったのではないか。そうなるとワキが「ウメ」の花だと盲目の弱法師に教えても、次のシテの「うたてやな」に続かなくなってしまう。これでは、難波津なら「花」は「梅」なのに興ざめだというシテの悲痛が消えてしまうのだ。
これは我々の誤りであろうか。

「弱法師」の笛は八反田智子さんでした。観世能楽堂の例会で女性の笛方が舞台に上がったのを見たのは初めてでした。見る方にとっては全く男性と遜色無く、肺活量だけで押す男性の笛より繊細でよい。増して「弱法師」には適した配置と積極的な評価が出来る。

 


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■観世喜之師「隅田川」     demanche 28 oct.07 [■能狂言]

国立能楽堂で行なわれた、「坂真次郎 一周忌追善能『東国夢幻』」に行く。
まず林望氏による「『あづま』とは何か」と題する、京都中心指向に起因する関東の言語の想像力の問題について、短い話があった。徒歩しか移動手段がなかった時代の京都・関東の間の異文化の位相は言語にも影響を及ぼすことは、言語の獲得と脳の発達の課題とはことなるが、想像力に社会が及ぼす問題として考えると興味深い。

お能は観世喜之師の「隅田川」と、故坂真次郎師の子息真太郎師の「融」。狂言は野村万作師の「簸屑(ひくず)」。
「隅田川」は、我が子(梅若)の行方を尋ね京都から東国にやって来た母親が、隅田川の渡し舟の上で子供が亡くなっていた事を聞かされる。母親が無常を嘆き、弔いのため念仏あげるのであるが、最後に塚から子供の念仏の声が聞こえてくる。母親は子供を抱こうとするのであるが、それは所詮幻でしかなく、するりとかわされてしまう。シテ方の観世喜之氏が子方を抱擁しようとする時、ふうわりと逃げる儚げな動きは、観ていて胸を掻き乱されるような心情になる。

謡曲本で「隅田川」を読んだ限りではここまで感情が高ぶる作品には思えなかったが、喜之師と子方の動きを視覚的に見ることによってそれまでに無い作品となって浮かび上がってきた。子方の危なげな発声・動きは観ている者を視覚的に情緒不安な領域に誘い込んでしまうのだ。それ対して子方の登場しない演出方法もある。これは我々の想像力に訴えかけ、観る者の力量を測られることになる。(野上豊一郎氏の示唆によって、金春流の桜間弓川(きゅうせん)師が子方なしの演出をした。1923年2月)

ハンカチで頬を押さえているご夫人がいらしたが、一人で見ていれば僕も落涙したかもしれない。

「融」は坂真太郎師の動きが今ひとつ緩慢に思えたのだが、それこそ我々の力不足が露呈してしまったのであり、一層の勉強が必要であろう。想像力が試されているのである。


千駄ヶ谷 国立能楽堂

・終演後は新宿へ戻り、末廣亭の近くに潜入。

 


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■観世九皐会九月例会「景清」「阿漕」  dimanche 9 sept 07 [■能狂言]

観世九皐会9月定例会 神楽坂・矢来能楽堂
能「景清」(シテ・長山禮三郎)、「阿漕」(シテ・遠藤和久)
狂言「鳴子遣子」(シテ・大蔵弥太郎)
「景清」は「平家物語」に題を取ったもので、平景清の零落れさらばえた姿を、長山禮太郎師が強弱をつけて演じきっていた。娘との邂逅と別離は我々の価値観では理解しかねるが、認識論の差異は将来にそのまま引き継いでいかねばならないのだ。
「阿漕」は殺生に対し冷厳な態度を取り続ける仏教の世界観を如実に顕在化させ、これまた認識論的差異の格好の学習材料となる。これも遠藤和久師が呵責を渋く演じられた。観世九皐会のシテ方は何方もよく稽古鍛錬しているのが良く分かる二題だった。

しかし、僕らの席は悪すぎる。残念だが、この儘では後々他の会に移っての鑑賞となるだろう。


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■観世九皐会8月例会「賀茂」「松虫」    demanche 5 aout 07 [■能狂言]

観世九皐会・8月例会、矢来能楽堂
お能「賀茂」(シテ・遠藤喜久)「松虫」(シテ・桑田貴志)、狂言「舟ふな」
「賀茂」は賀茂の明神の由来と、作者金春禅竹の遠祖といわれる秦氏の縁を書いたもので、金春禅竹に見られる奇抜な話である。神社の縁を題にする能は幾つかあるが、金春の手に掛かるとこうなるのかと思われる、多少期待はずれの作品か。

「松虫」は酒飲み仲間のことを書いたもので(そこまで俗流ではありませんが)、市で酒を飲み交わしていた友人が、松虫の音を聞き草むらに入ったまま死んでしまったことを偲ぶ男の幽霊の話である。書物には「同性の恋慕に近い友愛」とあるが、言表は酒飲みの話である。特筆すべきはシテ方の桑田貴志師の舞いが素晴らしかったことである。


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■観世九皐会7月定例会「梅枝」「殺生石」   demanche 08 juillet 07 [■能狂言]

観世九皐会7月定例会。神楽坂・矢来能楽堂
能「梅枝(うめがえ)」(シテ・遠藤六郎)、「殺生石」(シテ・五木田三郎、ワキ・工藤和哉)
狂言「酢薑(すはじかみ)」(シテ・善竹十郎)

「梅枝」は、宮中の楽人富士が浅間という楽人に討たれたことを題材にする「富士太鼓」とおなじ題。その富士の妻の幽霊が主人公となっている。遠藤六郎師の舞いはご高齢ながらやはりすばらしく、幽玄の世界に惹きこまれる思いであった。(ちなみに身延山を「しんねんざん」と呼ぶことを知りました)
それに対し、「殺生石」の五木田三郎師の野干(狐の精、玉藻)の舞いは力強く見ごたえがあった。

狂言の「酢薑」は酢売りと薑(はじかみ・生姜)売りの自慢話と秀句(駄洒落)の言い合いが面白く、現在の漫才(昭和まで)の原点がここにあるように思われる。少なくとも貶し合う現代のマンザイよりは数段健全で素直に笑える。


能楽堂玄関に飾られた七夕の短冊。いかにも涼しげだった。


意味深な短冊。


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■「善知鳥」「百萬」@矢来能楽堂  samedi 9 juin 07 [■能狂言]

観世九皐会6月定例会。神楽坂・矢来能楽堂
能「善知鳥」(シテ・観世喜正)、「百萬」(シテ・佐久間二郎)。狂言「素袍落(すおとし)」
仕舞「生田敦盛」(遠藤喜久)、「水無月祓」(観世喜之)、「融」(長山禮三郎)

「善知鳥」「百萬」ともに世阿弥元清の手になる四番目もの。「善知鳥」は観世喜正師が殺生を犯した猟師への仏罰を演じた。殺生の報いの場面の喜正師の舞いは圧巻であった。「百萬」は行き別れた子供を捜して狂乱した母親の舞いが主題だが、この二作を同一の会で観ると非常に困憊する。元清の作は如何にも時代の殺伐と、仏教思想を背景とした冷徹な倫理観を求められるため、能の本質的部分をみる思いだが、会が良ければ良いほど消耗する。

仕舞の三題も有名なもので、今回の例会は充実したものだった。


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■「屋島」「葵上」     dimanche 13 mai 07 [■能狂言]

神楽坂矢来能楽堂「観世九皐会」5月定例会
能「屋島」(シテ・弘田裕一)、「葵上」(シテ・長山耕三)。狂言「寝音曲」
「屋島」は屋島が浦の源平合戦のときの源義経の「弓流し」を弘田師が舞い、「葵上」は六条御息所の怨念の深さを舞われた。
「寝音曲」は太郎冠者の酩酊していく過程を大蔵吉次郎師が滑稽に演じられ、笑い興じることが出来ました。


 


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■「竹生島」「歌占」   dimanche 8-1 avril 07 [■能狂言]

観世九皐会4月定例会。神楽坂・矢来能楽堂
能「竹生島」(シテ・坂真太郎、ツレ・佐久間二郎)、「歌占(うたうら)」(シテ・奥川恒治、子方・奥川恒陽)。狂言「左近三郎」(シテ・善竹十郎、アド・善竹大二郎)

「竹生島」は弁財天と龍神の舞が続けて行われていかにも春らしくおめでたいものとなった。「歌占」は短冊を引いて占ったり 一度亡くなった神職が蘇ったりと、趣向を凝らした脚本で世阿弥らの作品と趣の違うものであったが、どうも違和感を感じてしまった。分かりやすい脚本であるのだが、いまひとつ時代と密着せねばならないでしょう。

 


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