■サイードのイラク戦争 samedi 26 avril 2003 [■Pensée]
BSプライムタイム『サイード “イラク戦争”を語る―開戦前夜 カイロ』
サイード Said とパレスチナ人権センターの弁護士ラジ・スラーニ Raji Al-Sourani がイラク空爆開始前日に行った対談で、米国の武力での他国家の変革が〈帝国〉そのものの発想だということ、それに対抗できるのは、ネルソン・マンデラ的な道徳の優位性であるといっている。
歴史によれば絶望的な行為であるが「意志の楽観主義」(Gramsci)を信じよう。また、サイードはイスラエルのパレスチナ占領が日本の朝鮮半島占領に匹敵するものだといっている。ここで日本が比較の対象として言及されたことは、世界史における日本の不名誉で恥ずべき立場を暴きだしている。 (日本国内のデマゴーグが幾ら糊塗しようと、海外ではそう評価されているのだ)
アラブ人でありアメリカ人であるサイードの立場は二義的には不確実であるが、倫理的な面では明確である。そこにあるところの存在でなく、またそこにないところのものでもない両方の立場に立てる可能性があるということなのである。それがサイード一人でなく、世界的な規模に敷衍され、立ち戻ることの出来ないところに来た文化の交雑性によってからしか「文明の衝突」を避けることは出来ない。
世界の交雑性が9・11のようなテロリスムの戦術的可能性を高めるが、しかし、まさにその文化の交雑性が「文明の衝突」を避ける倫理的方法論となるのである。テロリスムによって憎悪を増幅させ「文明の衝突」にまで捨象させるか、想像力を持って憎悪を超克するか、現実世界の未来を握る政治家の想像力はあまりにも脆弱であるとしか言いようがない。
対談が終わりガザに帰らなくてはいけないスラーニが、この対談は人間としての役目であり〈義務〉であるといっていた。翻って、日本のデマゴーグ雑誌「諸君」で、同じ〈義務〉という言葉を用いて、「義務としての戦争」などという対談をした学者の 、後期ピュロン派的判断停止には唖然とさせられる。同誌は、9・11後アメリカの正義論を相対化したチョムスキー Chomsky やサイードについて、アメリカでは殆んど知られていない学者で、 知られていないから論を聞くに値しない人物なのだ、というような文章を載せていた。しかし、その後アメリカがアフガニスタン、今回のイラクと軍事で国際問題を解決する短絡は、彼らの批判する野蛮そのものである。
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