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■加賀野井秀一「20世紀思想の再検討」   samedi 26 mai 2012 [■Pensée]

朝日カルチャーセンター「20世紀思想の再検討」第1期実存主義と現象学・第4回フッサールとハイデガー

「超越論的主観性」の問題では、①自然的 ②自然主義的考察が問題となるが、②から①への還元が要請される。

Maurice Merleau Ponty <La Phenomenologie de la Perception>
『知覚の現象学』
第2部.
知覚された世界 Ⅳ.他者と人間的世界 8.超越の諸問題、真に超越論的なものとはさまざまな超越の Ur-sprung である

「われわれは、自然的世界および社会的世界とともに、真に超越論的なものを発見したが、それは、影も不透明さもない透明な世界を不偏不党の傍観者の前にくり拡げるような、構成作業の総体のことではなく、さまざまな超越の Ursprung 〔源泉〕がそこに湧き出てくるような、両義的な生のことなのであり、またこれこそが或る根本的な矛盾によって、私をそれらの超越と交流せしめ、それを土台にして認識をも可能にするのである(1)」

(1)
フッサールはその後期の哲学において、すべての反省は生きられた世界(Lebenswelt)の記述に立ち帰ることから始めねばならないということを認めている。しかし彼はこれに付け加えて、生きられた世界の諸構造はそれはそれでまた、第二の<還元>によって、普遍的構成の超越論的流れのなかに置きもどされねばならないのであり、そこでは世界のすべての暗がりに光が当てられることになる、と述べている。けれども、可能なのは次の二つのうちの一つだということはあきらかである。すなわち、構成によって世界が透明になるか、それとも構成が生きられた世界のうちの何ものかを保持しつづけるか。前者の場合には、なぜ反省が遠まわりをしてして生きられた世界を経過する必要があるのかが理解できなくなるし、後者の場合には構成は生きられた世界からけっしてその不透明さを剥ぎとったりはしないことになる。フッサールの思惟が論理主義的時期の多くの無意識な記憶を介して次第に進んでいったのは、この第二の方向である。彼が合理性を問題視したり、結局のところ<流動的>であるような意味を認められたり(Erfahrung und urteil,428p)、認識を根源的[臆見〕の上に基礎づけたりするとき、われわれはそれにきづくことだろう。(『知覚の現象学』 みすず書房 pp236-237 木田元訳部分)

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