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■鈴木道彦「サルトル『嘔吐』を読む」       samedi 10 dec,2011 [■Pensée]

鈴木道彦さんによる、サルトルの『嘔吐』の8回講座の最終回。ロカンタンの、「ブーヴィルの最後の日」から終了まで。

サルトルは「独学者」の同性愛嗜好に鉄槌を食らわせたあとで、ロカンタンを再び、書くことの「冒険」へと「投企」させておわる。
単純な小説ならロカンタンの出奔に意味を持たせるのだが、サルトルはこの最終盤でもロカンタンに、意識の指向性を語らせ、現象学的な意識=「無」のあり方を読者に想起させる。

鈴木先生による『嘔吐』のまとめ。
①20世紀初頭の文学の影響下に書かれている
 マルロー、プルースト、ジョイス、シュル

②時代の先端的作品ではなく、形式は古風
 『自由への道2』にみられる複数の主体による展開(全体化というべきか)ではない。

③戦後アンガージュマンとの相違と通底する視点
 ブルジョア的価値観に対する嫌悪感が随所で見られる。

④サルトルの文学に対する信頼
 戦後一時期のコミュニケーションとしてのエクリチュールへの傾向とのブレ。

鈴木先生はサルトルのジュネ(『聖ジュネ』)、フローベール(『家の馬鹿息子』)、マラルメ、ボードレールなどの「伝記的評論」を高く評価し、構造主義の方法論を否定する。物語の構造分析が折衷論で終わることにたいし、たとえばジュネはサルトルのジュネ論を読むことによってジュネを演じなくてはならなくなるのだ。

以前、海老坂武さんがサルトルの作品の中で何が一番好きかという問いにジュネ論をあげたことがあった。図らずも鈴木さんと同じ作品を上げているが、では、平井啓之先生は、と訊きたくなってしまうではないか。

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