■ 浅見洋 『二人称の死』 dimanche 30 mai 2010 [■Livre]
浅見洋『二人称の死―西田・大拙・西谷の思想をめぐって』(春風社 2003年)
一人称(自分)の死、三人称(他者)の死に対して、「あなた」(二人称)の死が齎す<喪失感>と<悲嘆>が思索にあたえる根本的な変動を書いている。
自分の死は恐怖であるが、つれ合い・恋人、父母子供、兄弟姉妹の死は大悲を伴う。西田幾多郎、鈴木大拙、西谷啓治という深淵なる精神を辿った三人をとりあげ、仕事の成就に肉親の喪失がどのような影響をもったか、更に思想に現れたか、辛い作業を追っている。存在一般に対する論究も、私の存在・ここにある存在から立論すれば、帰結する答えは変わってくる。
三氏と供に言及されている、田辺元氏の「共同体」倫理観を援用したハイデガーの存在論に関する批判には同意しがたい点がある。日本の哲学、言いかえれば存在論は、禅を介在し変容させたが故に刹那的非論理的になってしまった。失礼ながらそれも歪曲してである。それでも『碧巌録』をもう一度開くのだったが……
二人称の存在、見方を変えれば「生」と「死」が如何に大きなものか。このことしか問題はないと再確認する度に戦くばかりです。
一人称(自分)の死、三人称(他者)の死に対して、「あなた」(二人称)の死が齎す<喪失感>と<悲嘆>が思索にあたえる根本的な変動を書いている。
自分の死は恐怖であるが、つれ合い・恋人、父母子供、兄弟姉妹の死は大悲を伴う。西田幾多郎、鈴木大拙、西谷啓治という深淵なる精神を辿った三人をとりあげ、仕事の成就に肉親の喪失がどのような影響をもったか、更に思想に現れたか、辛い作業を追っている。存在一般に対する論究も、私の存在・ここにある存在から立論すれば、帰結する答えは変わってくる。
三氏と供に言及されている、田辺元氏の「共同体」倫理観を援用したハイデガーの存在論に関する批判には同意しがたい点がある。日本の哲学、言いかえれば存在論は、禅を介在し変容させたが故に刹那的非論理的になってしまった。失礼ながらそれも歪曲してである。それでも『碧巌録』をもう一度開くのだったが……
二人称の存在、見方を変えれば「生」と「死」が如何に大きなものか。このことしか問題はないと再確認する度に戦くばかりです。
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