SSブログ

■テンギズ・アブラゼ 『懺悔』  dimanche 25 janv, 09 [■Cinéma et Musique]

岩波ホールで、グルジア映画、テンギズ・アブラゼ監督『懺悔』を観る。

ソ連体制下の1984年に、架空の街の市長の独裁ぶりを通して権力の粛清を浮かび上がらせ、ソビエト・ロシアの現実を抉り出すことが如何に危険であるか。この作品は事前検閲の不要なテレビ番組として許可を取り、大衆の賛同を得たという。ゴルバチョフ書記長や、グルジア出身であるシェワルナゼ外相がソ連政治局の中枢に登場するからといって、反体制弾圧の秘密警察KGBはどこにでも目を光らせていたのだ。

主人公ケテヴァンの幼年時代。市長は秘密警察を駆使して市政の反対者を弾圧する。ケテヴァンの父親は画家で、大聖堂修繕を求めたことで強制収容所に送られてしまう。そしてまた母親も逮捕され殺される。権力は民衆の嘆息でも犯罪に仕立て上げることが出来る。演説中自室の窓を閉じたということでも収容所に送られてしまうのだ。

数年後市長が亡くなったが、ケテヴァンは両親を殺した市長の亡骸を繰り返し掘り返す。独裁者を埋葬することはその罪を許すことになると言い立てる。ケテヴァンと市長の息子アベルは幼年時代の友人であるが、弾圧する側とされる側では、なにが行なわれてきたか全く感知しない者と抑圧を生きた者に分かれる。アベルは孫息子トルニケの罪の意識にまみれた自殺によって、この国でなにが行なわれてきたか自覚することになる。

息子の死によって権力を認識し、罪意識を想起するのは安易である。宗教心の深浅をその要素と言える国家はまだ救われるのではないか。最早宗教も国家も存在理由にならない人間の生の根源まで来ている。1984年はまだ希望があった。しかしソ連(国民国家)が崩壊し、民族国家の幻想もまた消えた後、残ったのは虐殺だけだ。

国際情勢に言及する時、9.11の前か後かで有効性の意味は違ってくる。グルジアはオセチア問題を内包しているが、重層的な論理の解明はより一層複雑になっている。

zange_1.jpg
■『懺悔』(テンギズ・アブラゼ監督作品)テンギス・アブラゼ
 1984年ソビエト(グルジア) 133分
 岩波ホール


2時間半を感じさせない作品だったが、話が急をつげる2時間過ぎ、携帯を鳴らす馬鹿がいた。「今映画を観ている……」老人の声で応答している様子が窺えた。青年たちは電源を切るか、無音にしているぞ。老人の方が鈍感で非社会的だ。僕の前にいた人は怒りの退場。分かる、俺もそうしたい。
耐えた数分後、またその馬鹿の携帯が鳴った。今度はなにやら話し込んでいる。ここまで周りのことを無視した客はそうそう居ない。愚鈍か白痴か非常識非社会的その物だ。携帯の設定も出来ないのなら、映画で言われていることも理解できないんじゃないか。即退場すべし。

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。