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■カミュと田辺元      samedi 6 mars 2004 [■Pensée]

『二十世紀のフランス知識人』(渡辺淳 集英社新書)という小冊子で、戦時中にカミュが発表した「ドイツ人の友への手紙」が紹介されている。

「ドイツ人たちは祖国のためならすべてを犠牲にできると言うが、たとえ祖国がいかに偉大であろうと、私はそのようには決して思わない。私は正義を生かしつつ、同時に祖国を生かしたい。……この世界のうちにあって唯一意味があるのは人間、人間だけである」

この言表の同時代、日本ではどうだったか。1943年(昭和18年)5月19日、京都大学で田辺元氏が行った講演「死生」は、〈人間〉〈国〉などカミュと同概念の言葉を使用してはいるが、見事に逆の解答をだしている。田辺元氏は戦地に赴かんとする学生の前で、スピノザの自然概念、ハイデガーの現存在に触れながら死を語る。いずれも明確な答えを出せないまま(出せる筈がない)、学生に死に飛び込めと語る。そして唐突に、「絶対実在」なる概念を持ち出し、「個人」「国家」「神」の三位一体を成立ならしめるために〈死〉を強要する。京都学派、日本の哲学の敗北はこの非論理で著作、一部授業だけでなく決定的に学生の前に露呈されたといえる。教育装置は論理や真理それ自体に起因するのでなく、国家の論理に依存し幾らでも真理や論理を歪曲する。その誤謬の顕在が講演「死生」である。教授、哲学者、どう表現しようと所詮国家に寄生する権威であり同伴者なのである。

「神は人が国に身を捧げ、国が人のもつ神聖性とか、……神聖なものを生かすことによつて、国が単に特殊な国といふ性質を越えて神を実現してゐるのである。神聖なもの絶対的なものであるといふ時は、神と国が個人を通じて結び付くのであつて、人は国を通して現実に身を捧げるものとして具体的存在もつてゐる」(「死生」 『田辺元選集8』 p259)

これが生ける学生の前で言う教授の言葉なのだ。観念論以前の素朴な言語遊びだ。それも、蓑田胸喜などの札付きの天皇主義者ではなく、京都学派の一人から発せられているのだ。日本の哲学は死んでいる、否、 もともと日本に哲学といえる学問は存在しなかったのだ。(戸坂潤が日本(ニッポン)思想を批判するのはまったく正しい)

渡辺淳さんのことは存じ上げないのですが、経歴にバルトの翻訳が上がっている。25年前に読んだ記憶を辿ってみすずの『零度のエクリチュール』を開いてみると、より有意義に読んだ「記号学の原理」は沢村昂一氏であった。さもありなん、納得。


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