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●今、フランツ・ファノンは?  jeudi 14 fev.2002 [■Pensée]

恵比寿の日仏会館にて、海老坂武さんの講演「フランツ・ファノン没後40年 ファノンは今?」

白人に対する黒人ファノンの乗り越え、第三世界の植民地化された身体の解放。そして、全体的人間観の形成を、それを読む我々日本人の読み方、個々人の経験を通してしか構築しえないものとして語った。

ファノンのレクチュールは、『人類の知的遺産 78 フランツ・ファノン』(講談社 1981年)の解説に沿ったものだったが、現代性の問題では、この5、6年知の位相で流行っている<ポスト・コロニアル><カルチャラル・スタディ><クレオール>に言及し、一部の留保はあるものの 、その学問の胡散臭さと浅薄さをファノンの論と対比してみせた。ファノンが問題とせざるをえなかったアイデンティティの問題はクレオールの問題でもあり、直接植民地主義の問題と結びついている。各地域の学問的レヴェル、自己認識が顕在してきた現在だからこそ、クレオールを語るときの<主体>は一層複雑になるし、重要になる。


また、現代アフリカの混迷する内戦状態に対する責任を全てファノンに擦りつけたアラン・フィンケルクロートの『思想の敗北あるいは文化のパラドクス』(河出書房新社 1988年/LA DEFAITE DE LA PENSEE 1987)について感想を求められ(質問者は三浦信孝氏)、フィンケルクロートの状況の変化の把握の欠如をあげるとともに、変化する解放の位相での役割の変化を言外に述べていた。つまり、1953年のファノンと2002年のファノンでは必然的に方法論に変化が出るということである。それを68年5月を経験し敗北したフィンケルクロートに認識できないということは驚きである。少なくともファノンは民族意識と民族主義を厳密に区別している。

「自己意識は、コミュニケーションを閉ざす鎧戸ではない。哲学的考察は、逆に自己意識がコミュニケーションの保証であることを教えている。民族主義ならぬ民族意識は、われわれにインターナショナルな広がりを与えている唯一のものだ。民族意識、民族文化のこの問題は、アフリカにおいては特別な広がりを帯びている。アフリカにおける民族意識の生誕は、アフリカの意識と、厳密に同時代的な関係を保っている。自己の民族文化に対するアフリカ人の責任は、またニグロ・アフリカ文化に対する責任でもある。」(『地に呪われたる者』 みすず書房 1969年 p141/LES DAMNES DE LA TERRE 1966)


9・11への言及は何もなされなかったが、講演の通奏低音としてそれを考えなかった者は居なかったのではないか。海老坂さんの文章を読み替えることは、マニ教的二元論の隘路に陥るか、ハンティントン的短絡あるいはブッシュ的能天気に嵌ることを甘受することになるであろうが、その危機を敢えてしたい。

「白人に同化しようとする自己疎外を告発すると同時に、黒い皮膚に閉じこもりこれを価値化しようとする自己疎外に警告……。過去の奴隷になるな、歴史の虜になるな、輝ける黒人文化などということにこだわるな、黒い皮膚の色から価値を引き出そうなどと考えるな、と。一人の人間として非人間化に対し、奴隷化に対し闘うことだけが重要なのだ、と。彼は白-黒の二項対立から一歩先に出ようとしたのであり、その一歩先の立場とは、たしかに<人間>の立場としか言いようがなかったのであろう」(『フランツ・ファノン』 p23)

われわれはこの海老坂さんの文章を敢えて「イスラムと西洋」に書き換えてみよう。イスラム原理主義はファノンを学ばなかったのである。フィンケルクロート的に言えば、そこに回収された西洋を見たのであろうが、イスラムはその時点で原始時代に戻ることを選択したのだ。

「おお、私の身体よ、いつまでも私を、問い続ける人間たらしめよ!」

地に呪われたる者

地に呪われたる者

  • 作者: フランツ ファノン
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 1996/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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