鴨長明「方丈記」 1 juin 2000 [■Livre]
岩波文庫版の『方丈記』を読み返した。
以前「読書人」(2307号=1999.10.22.)で池田清彦さんと対談した、養老孟司さんが「方丈記」について異常に評価していたのが気にかかっていたからだ。
三島由紀夫の産湯よりも、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」から「世中にある人と栖と、亦かくのごとし」の冒頭の文章の方が見事だと言う。ところで、冒頭以下文章は火事、飢饉、地震など天変地異の表現が続くばかりだ。無常観以外感じるものは無い。これを渋谷で遊ぶ少年達が、学校の授業でやるのは無理というものだろう。それなりの年齢にいかなくては古典は読めないし、よく言われることだが、漱石や鴎外も15歳前後の青年に理解しろと言うのが無理なのだ。況してや近代的理性の発現されていない言表、古語の読解は苦痛以外無いだろう。
校注者の市古貞次氏によると、同じく出家した人、西行の方に同時代人の評価が高いことが分かる。23歳で出家し自然界のなかに隠遁しながらも、人間的な感情が垣間見られる『山家集』の作者の背後にあるのは無常観と強い自省である。では、鴨長明はどうか。神職の家に有りながらも、若年で父を無くした境涯はある。にもかかわらず、すこしだけあったがために不幸な和歌の才に対する固執は50歳までだらだらと出家する時期を延ばした。現代の認識論的位相とは異なる平安期、生にたいする執着は、自ら立脚する出自のアイデンティティの否定である。
現代の絶対的美的観念の喪失した、つまりヘーゲル的思考を否定する社会においては、鴨長明の生き方も亦それも肯んじられようが、それを以って現代人長明などという愚かな認識をもししてしまえば、それは、思考の停止であるしかない。西行の、出家後の人間に対する愛着と、長明の出家に至るまでの社会的地位に対する煩悶の隔絶はやはり明らかだ。一度遁世してしまったものの自然の無常観と謳歌の隙間に生まれる、ある仄かな喜びと絶望は、実存的生に感応する。
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