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■サルトル『嘔吐』を読む―Salaud―     samedi 10 sept, 2011 [■Pensée]

鈴木道彦さんの『サルトルの「嘔吐」を読む』。春の前半に続き後半を読む第1回。

P138「土曜日朝」以降から。
ロカンタンがブーヴィル美術館で見たこの町の名士の肖像画群の、存在する理由を持って生まれてきたかのような欺瞞的な紳士然とした俗物たちに<adieu,Salauds> と言い放つ場面。自由を基底とする存在論の展開が『嘔吐』の一方の核心なら、その論の倫理的起点となる欺瞞への憎悪がここでは展開される。
自分を意味のあるものであるかのように振る舞う「権利」に反吐をかける、「反逆者」サルトルの存在論の萌芽はここで倫理観として表れている。人間の存在はただ単に偶然性によるものなのだという、「実存主義」の存在論の根底をここではブーヴィルの俗物をつかって表出させている。

(サルトルの翻訳紹介をしてきた平井啓之さんが、「あるとき生まれて、あるとき死んでゆく」という偶然性が人間の存在の出発だと言っていたのは、禅の思想ともことなり、「わだつみ」として戦争を経験してきた人たちの根底にある存在論であるだけにリアルであった)

<adieu,Salauds> を、鈴木先生は「おさらばだ、下種どもよ」と訳している。それに対し白井浩司氏は1951年訳・94年訳ともに「さらば<ろくでなし>よ」となっている。白井訳に対しては、海老坂武さんが『サルトル』(岩波新書 2005年)で、

 <実を言えば、「ろくでなし」という白井浩司氏の訳語は原語の「サロー」(salaud)とかなりずれている。「ろくでなし」は品行のよからぬ人間、さらには生活能力のない人間に向けられた言葉で、(略)ある人間の状態を示すときに使われる言葉である。/これに対して「サロー」は意味がもっと強く、「豚野郎」、「下劣漢」などと訳せるかもしれない。そしてその人間の状態ないしステータスとは関係なく、品性、ものの考え方、行為にかかわる言葉である。『嘔吐』のテクストに即して言うなら、「自分には存在理由がある」と信じて疑わないその発想が「サロー」ということになる>

『嘔吐』が魅力なのは、サルトルが魅力なのは、存在が権利であるかのように踏ん反り返っている下種どもに対し存在論から否定するところだ。2011年3月の東日本大震災後に露呈した、原子力産業とともに増殖して来た官僚・政治家の経済的腐敗・精神的頽廃は、自分が国家と同一していると考えるしか自らの存在を生きられない下種どもを再び浮かび上がらせてくれた。戦前戦後の国家認識論が天皇制という虚偽意識で連続しているように、科学技術の認識論は生命・環境を懐柔して延命するだろうことも浮かび上がらせている。そしてそこに寄生しているのは官僚・政治家という下種どもなのだ。



p164以降。
何の根拠もない存在。それは我々自身にも当て嵌まる。特権的存在でないもの、物としての存在、それは我々自身でもある。そして身体としての私が身体を意識する。その中に「現実存在」の萌芽があるのだ。存在はその時、現実存在となる。ロカンタンの「内的独白」(monologue intérieur)にそって刻々と物と現実存在が乖離しはじめる。「吐き気」が湧き上がるまでもう少し。

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