◆追悼 石塚武生氏 vendredi 7 aout 2009 [■早稲田ラグビー]
6日、石塚武生さんが亡くなる。菅平から帰ったあと倒れたらしい。新聞の記事が誤報であってほしい。
石塚さんのブログ「ラグビーノート」も7月30日付で、2019年ワールドカップ日本開催の話題を記入したばかりではないか。フジテレビの上田昭夫さんのブログ「ひとりごと」でもいつも元気なスナップを見せてくれていたではないか。
石塚さんは、早稲田・ジャパンのフランカーとして活躍し、対象試合の少なかった当時、28キャップの最多記録を誇っていた。早稲田在学時代2度の大学日本一。1975年9月24日来日したウェールズの最終試合、WTB・J・J・ウィリアムスを一発で決めたタックルは、石塚さんの称号である「タックルマン」の面目躍如であろう。1983年1試合も出場しなかった英国遠征まで(最終戦が「餓狼作戦」で有名な、24-29の接戦をしたウェールズ戦)、石塚さんは走り続けた。
ラグビーを最初に観た記憶は、早稲田×慶応50周年ではなかったか。慶応には上田さんがいて、早稲田には宿沢、藤原らと共に右のフランカーは石塚さんであった。
著書『炎のタックルマン』(ベースボール・マガジン社 2000年)の、「私はこれからもラグビーとともに生きていきます」という言葉そのままに生き、疾走しきってしまわれた。2年先輩の宿沢広朗さん(2006年享年55)、そして石塚さんと、余りにも早い他界である。ご冥福を祈ります。
秩父宮ラグビー場で
●ラグビー協会の記事から転載
國學院久我山高校3年生からラグビーを始める。早稲田→リコー→伊勢丹。早稲田大学4年時には主将として、第11回(1974年度)全国大学ラグビーフットボール選手権大会優勝を飾る。
また同年、日本代表に選ばれ、ニュージーランド学生代表戦でデビュー。それ以来、1982年の日本代表主将を含め、28キャップを積み重ねた。1991年より伊勢丹ラグビー部監督に就任。1996~1997年、早稲田大学で監督を歴任。
その後、2001年6月~2006年3月まで、財団法人日本ラグビーフットボール協会に勤務し普及育成を担当。全国を巡回し、タグラグビー教室やラグビー教室を開催し、ラグビーの普及発展に貢献。また、2003~05年度にはU19日本代表団長兼監督に就任し、2004年4月には南アフリカ・ダーバンで行われた「U20世界ラグビー選手権大会(IRB JUNIOR WORLD CHAMPIONSHIP)」前身の「U19世界選手権大会」で過去最高の7位という成績を収め、ユース強化育成に努める。
オーストラリアラグビー協会公認コーチ資格レベル1取得、オーストラリアコーチ資格レベル2取得。
2006年4月より、学校法人常総学院高等学校(茨城県)ラグビー部監督に就任。
炎のタックルマン作者: 石塚 武生
- 出版社/メーカー: ベースボールマガジン社
- 発売日: 2000/06
- メディア: 単行本
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