SSブログ

■映画 『真昼の暗黒』 『松川事件』       29 avril 2008 [■Cinéma et Musique]

WOWOWで録り溜めしてあった、『真昼の暗黒』(監督・今井正 1956)と『松川事件』(監督・山本薩夫 1961)を続けてみる。

『真昼の暗黒』は1951年(昭和26年)山口県麻郷村八海の老夫婦殺害事件、所謂「八海事件」を扱ったもの。また『松川事件』は1949年(昭和24年)東北本線上野行列車が福島県松川駅北で脱線転覆、機関士3名が亡くなった事件を取り扱ったものである。戦後間もない昭和20年代は「帝銀事件」を初め、「三鷹」「下山」「松川」の国鉄事件、「免田事件」「島田事件」等、謎の残る事件や冤罪「事件」が多発した。人権を蹂躙した裁判が如何に将来に禍根を残すか、日本の刑事裁判制度の根底にある恥部を浮かび上がらせた作品である。

悪意に基づき表現するならば、事件発覚後、「予断」と「見込み捜査」で事件をフレームアップし、連日に亘る拷問、脅迫で「自白」を強要、偽造する。アリバイの証拠は「偽証」で糊塗、被疑者の有利となる物証は「紛失」と、検察側は刑事訴訟法の鉄則を歪曲し、論理破綻が明白なのにも拘わらず公判を維持し続ける。そして、裁判官までもが任意性を欠く「自白」を根拠に無実の人間に死刑判決を下す。判決文を読めば分かるが、戦後まもなくの裁判制度の認識論は、戦前の認識論と差異が無い。検察、裁判所の判断は国あるいは権力の視点であり、国民、人権の視点は皆無である。このような流れで裁判が行われれば、善良な市民はまさに「真昼の暗黒」の中に投げ捨てられていることになる。法の支配を謳った憲法も恣意的な制度のもとではまったくの無力になってしまう。法を支配しているのは、正義や人権理論ではなく、権力に癒着する人間個人や組織なのである。

この二つのまったく異なる事件の共通項は、警察、検察、さらには裁判にも及ぶ、冤罪を生み出す日本の刑事裁判制度の前近代性である。冤罪が確定するまで「八海事件」は17年、「松川事件」は14年と、長きに渡り無実の人間の人権を蹂躙し続けるという(「八海事件」の阿藤氏は裁判中、死刑、無罪を二転三転した)裁判制度そのものが国家犯罪というべきだろう。

来年2009年「裁判員制度」施行に臨んで、市民参加の司法制度が出来たことは賛同する。また戦後60年経ち、戦後まもなくの検察と認識論的ズレが組織内部にあること、市民化されたものであると多少とも期待したい。しかし、権力に無防備な市民の裁判参加は専門的領域の「知」(誘導)に耐えうるかはなはだ疑問である。

学生の頃、後藤昌次郎弁護士をお呼びして、この『真昼の暗黒』を観たときの記憶。そして、それを遡る中学生時に『誤まった裁判―八つの刑事事件』(上田誠吉・共著 岩波新書)を読んだときの、社会は変えられねばならないという記憶が鮮明に蘇ってきた。

絶対に繰り返してはならないことは、『真昼の暗黒』のラストシーン、阿藤氏を模す人物が鉄格子の向こうから叫ぶ、「まだ最高裁がある」という絶望の叫びだ。(そこには司法への信頼もあるのだが)

真昼の暗黒

真昼の暗黒

  • 出版社/メーカー: 北星
  • メディア: DVD

松川事件

松川事件

  • 出版社/メーカー: エースデュースエンタテインメント
  • メディア: DVD


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 1

福田恒存をやっつける会会長

 八海事件にしろ、松川事件あるいは菅生事件にせよ、極めて長期間の審理を行って居る間に、検察が隠匿していた被告の無罪を裏付ける証拠とか、その他の被告に有利な証拠や事実が出てきて、結果的に無罪が決定した。

 悪どい検察・警察はめったな事では己の悪事を認めない。長期間の審理を行っている間に、世論の支持を得てきた(冤罪)被告人側の努力で、証拠隠匿などの検察・警察の悪事が露見するのである。

 ところが裁判委員制度の宣伝でしきりにうたわれている訴訟の迅速化が行われると、そういった検察の悪事を暴く事がほとんど不可能になり、結果的に冤罪者が増加することは明らかでしょう。
by 福田恒存をやっつける会会長 (2008-12-14 15:13) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。