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マドレーヌの記憶             8 sept. 05 [■Gâteau et patisserie]

健康診断のために一週間禁酒。5日間だったか……。
それを待っていたかの様に、洋子さんから頂物、「村上開新堂」のマドレーヌ。
村上開新堂といえばご紹介が必要なのではなかったのかと思って聞いたところ、当然のように登録してあるという。と言う事は、12月の「みかんゼリー」も期待して良いということでしょうか。

で、マドレーヌである。帆立貝の形をした焼き菓子は僕の感想よりも、あまりにも有名な一文に任せた方が良いだろう。

 「それは帆立貝の細い溝のある貝殻にでも流しこんで焼いたかと思える、あのころっとして膨らんだ《プチット・マドレーヌ》と呼ばれる菓子だった。そうしてまもなく、陰鬱な今日の一日、うら悲しい明日の日の見透し、そんな屈託に耐えかねて、私は、そのマドレーヌの一片を浸けてほとびさせたお茶を一匙、機械的に、唇にもっていった。ところが、菓子の細かいかけらのまじった一口のお茶が、口うらにふれた瞬間私は身震いした、何か異常なものが身内に生じているのに気づいて。なんとも言えぬ快感が、孤立して、どこからともなくわきだし、私を浸してしまっているのだ。その快感はあたかも恋のはたらきと同じように、高貴なエッセンスで私を満たし、たちまち、私をして人生の有為転変に無関係にし、人生の災厄に平然たらしめ、人生のはかなさを迷妄を悟らしめたのであった。というよりもむしろ、そのエッセンスは私のうちにあるのではなく、私そのものであった」(プルースト 『失われた時を求めて』 淀野隆三・井上究一郎/訳 新潮社版 1974)

Proust はマドレーヌの味から、有料トイレの湿った匂いから、靴を脱ぐ動作から(心の間歇!)、不均衡な歩道の石から、匙の音から、ナプキンの感触から無意識的記憶を惹起した。
そしてSartre 、Deleuze/Guattari に至るまで広範な思想の方向付けをした。

翻るに、昨夜酩酊したあとのマドレーヌが齎したのは無‐記憶しかなかった。あるのは悔恨と自己嫌悪ばかり。味どころか何も憶えていません。佳蔵くんに2個上げたまでは記憶にあるのですが……
今思い出したのは、『失われた時を求めて』も読了していないということだった。鈴木道彦さんの個人訳どころか、井上究一郎さんの訳も出ていなかった頃、後藤ちゃんから譲り受けた箱入りの全7巻は本棚の奥深くに眠っている。やはり自己嫌悪。


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