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「ハンニバル」    jeudi 3 mai 2001 [■Cinéma et Musique]

誘われて、”HANNIBAL”を観る。

前作”羊たちの沈黙”(The Silence of the Lambs,1991)におけるアンソニー・ホプキンス Anthony Hopkins のハンニバル・レクター Hannibal Lecter のカニバリスムがあまりにも話題となり、作品の評価が定まったものとなっていたため、この続編に対しては、ある種のスマートさと貴族性があらかじめ前提とされてか、結果的に場面の衝撃性やストーリーの展開も冗漫な冒険のないものとなっている。

もちろん、想像力の欠如した、殆ど自己目的でしかないスプラッターやカルトとは一線を画してはいるが、レクターの残虐性を補完するために、隠棲の場所をフィレンツェにしたり、そのフィレンツェの詩人ダンテ Dante Alighieri の『神曲』の講義をさせてみたりして、重層的な歴史背景にレクターの狂気をすり込ませようとしているが、古典主義時代以前の宗教性と性的倒錯をもつ現代の人格障害者との狂気の観念連合は成功していない。それは単に今回の被害者の数を増やさんがための映画的操作のためのものというべきだろう。

そのダンテと関連して、やはり付言しなければならないのは、原作と異なるということで賛否批評の分かれているクライマックスの陳腐さだ。FBI捜査官クラリス・スターリング Clarice Starling に対するレクターのセンチメンタルな行動は、それまでの他者にたいする一見冷徹な狂気の行動とはことなり、明らかなエンパシーが働いており作中人物レクターの行動性格とは異なる。あの時点でレクターの行動は物語として成立しない。なぜなら、それ以前にクラリスを助けるのは、あくまで人肉食の対象、あるいは知的遊戯の対象として見なしているからであり、それは、レクターが講義したダンテの『神曲』に関するある言説の欠如で明らかなのである。

レクターは煉獄の凄惨さは饒舌に講義していたが、ダンテが遍歴する『神曲』三編、地獄、浄火、天堂における魂の昇華のキーパーソンとなる女性ベアトリーチェに関してまったく言及していなかった。ベアトリーチェは詩人ダンテが幼い時邂逅し、その九年後に唯一度会釈をされた夭折の女性である。その女性をダンテは天堂へ導く存在として 『神曲』に登場させた。もし、作中ハンニバル・レクターが残虐性の快楽だけを目的でなくダンテを研究していたと設定すると、講義中ベアトリーチェへの言及は必然的に要求される。とすると、物語の展開としては、クラリスはレクターのベアトリーチェとして存在すると演繹しなければならなくなる。それが物語というものだ。しかしながら、レクターの口からは唯の片もベアトリーチェの言の葉は俎上にのぼされてなかった。とすれば、それゆえ、カニバリスト・レクターがクラリスにあのような行動を取る物語的必然は成立しないと断言できるのである。


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