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2015-09-18 [■vie]

(寄稿 憲法はいま)96条改正という「革命」 憲法学者・石川健治
2013.05.03 東京朝刊 13頁 オピニオン1 写図有 (全4,200字) 
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 日本国憲法のもとに、立法権と行政権と司法権があり、国会と内閣と裁判所がある。それは誰でも知っている。たとえば立法権は国会に分配され、国会は立法府として単純多数決(つまりは過半数の賛成)で法律をつくっている。これも常識だろう。ところが、それらとは別に、憲法改正権という、もうひとつの「権力」がある。このことについて、深く考える機会はなかったかもしれない。

 国民主権をかかげる憲法では、憲法改正権も、立法府に分配されることが少なくない。立法府は「全国民の代表」とされるからだ。そして、憲法改正に関して、立法府に特別多数決(たとえば3分の2の賛成)を要求する定めをおくと、その憲法は硬性憲法に分類される。ドイツ連邦共和国の憲法は、連邦制特有の事情もあって戦後60回近く改正されていることで有名だが、上下両院の3分の2の賛成が必要であり、典型的な硬性憲法である。

 この点、日本国憲法の場合、憲法改正の発議に関して、通常の立法手続きよりも高いハードル(各議院の総議員の3分の2以上の賛成)が課せられている。このハードルの高さゆえに、日本国憲法は硬性憲法に分類されるわけである。これに対して、憲法改正の場合にも、立法府が単純多数決で済ませてしまう憲法がある。これが軟性憲法であり、そこでは、憲法と法律を区別する意味が、事実上なくなってしまう。

 日本国憲法の改正手続きに特徴があるとすれば、国会が憲法改正を企てた際には、必ずレファレンダム(国民投票)にかけることを求めている点にある(96条)。憲法前文には、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」とあることから、憲法改正権も国会に分配されてよさそうなものだが、憲法はそうはしなかった。これは、国会が特定の地方自治体を狙い撃ちにする法律をつくった場合に備えて、必ずレファレンダム(この場合は住民投票)にかけなくてはならない仕組みにしたのと、同様の発想である(95条)。

 しかし、憲法改正について実質的な審議を行うのは、国会であることに、変わりがない。硬性憲法であることの本質は、国会に課せられたハードルの高さにこそある。

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 いきなり堅苦しい書き出しになってしまったが、大して難しい話ではないと思う。ところが、現在の日本政治は、こうした当たり前の論理の筋道を追おうとはせず、いかなる立場の政治家にも要求されるはずの「政治の矩(のり)」を、踏み外そうとしている。96条を改正して、国会のハードルを通常の立法と同様の単純多数決に下げてしまおう、という議論が、時の内閣総理大臣によって公言され、政権与党や有力政党がそれを公約として参院選を戦おうとしているのである。

 これは真に戦慄(せんりつ)すべき事態だといわなくてはならない。その主張の背後に見え隠れする、将来の憲法9条改正論に対して、ではない。議論の筋道を追うことを軽視する、その反知性主義に対して、である。

 第一に、良き民主政治にとって、「代表」は必要不可欠か、というのは真剣に問う必要のある問いである。もちろん賛否両論であろう。

 有権者は日頃自分自身の利益を追求するので手いっぱいだから、国民全体の立場からしっかりと議論をし、公共の利益を追求する「代表」なしには、良き民主政治にはならない。これが、日本国憲法が採用する、間接民主制(代表民主制)の論理である。中央政治・地方政治を問わず、旧来の自民党政治家に、「代表」を飛ばして直接「民意」に訴える、国民投票や住民投票の導入に懐疑的なタイプの人が多かったのは、その意味では首尾一貫していた。そして、憲法改正手続きから国民投票をはずすことを主張するならば、その当否は別として、議会政治家として筋が通っている。

 ところが、今回の改憲提案では、直接「民意」に訴えるという名目で、議会側のハードルを下げ、しゃにむに国民投票による単純多数決に丸投げしようとしている。議会政治家としての矜持(きょうじ)が問われよう。衆愚政治に陥らない民主政治とは何であるかを、真摯(しんし)に議論する必要がある。

 そして、目下の改憲提案に従い、改正手続きのすべての局面を単純多数決にそろえるとすると、第二に、これまで単純多数ではなく特別多数による議決を求めてきたのはなぜか、を問わなくてはならなくなる。もちろん、単純多数決が本当に民主的な決定だと言い切れるのか、疑いがあったからである。

 構成員全員が納得して従える、正しい意味で民主的な決定は、全員一致による決定であろう。徹底的に議論し、異論があるなら説得をする。内閣は、戦前も戦後も、したがって今日も、この方式で意思決定をしているのである。しかし、このやり方は、決定に時間がかかる。また、メンバーにいわば同調圧力がかかり、異論をもつものは、「窒息」させられるか、脱退を余儀なくされる。

 満洲事変の後、国際連盟から日本が脱退をせざるを得なかったのは、連盟が全員一致方式をとっていたからである。松岡洋右全権代表が議場から退場するシーンは有名であろう。最近では、鳩山連立内閣で異論を唱えた社民党党首、福島瑞穂氏の例が、記憶に新しい。はじめは強い同調の圧力がかかり、途中からは排除の圧力がかかった。日本国憲法は、戦前の反省に基づき、内閣の決定力を補うために、異論をもつ閣僚を罷免(ひめん)する権限を内閣総理大臣に与えている。当時の鳩山由紀夫首相は、福島氏を罷免することによって、内閣の決定力を回復したのであった。

 そこで、決定力の強い多数決方式が、検討されることになる。あたま数をかぞえるだけですぐに結論を出せる一方、異論をもつものが脱退しなくてよいという利点がある。しかし、その反面で、多数決は、少数者の抑圧を、原理的に予定している。多数決をするたびに、半数近くの者が抑圧され、服従を強いられている。それが本当に民主的な決定だといえるのか。これは古くからある難問であり、「強行採決」が非難される理由はそこにある。だからこそ、できるだけ丁寧に議論をし、多数派と少数派はできるだけ歩み寄り、お互いが納得できるコンセンサスをめざすのである。

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 特別多数決も、多数決には違いないが、単純多数決に比べ、討論とコンセンサスの制度的条件を提供して、民主的決定の質を高めると同時に、異論の余地も残せる利点がある。その分、時間的なコストは、覚悟の上である。具体的には、日本国憲法はつぎの五つの局面を想定している。衆参それぞれの議院で行われる、議員の資格を争う裁判で、議席を失わせる結論を出す場合。会議を非公開(秘密会)にする場合。院内の秩序をみだした議員に対して、除名の議決をする場合。衆参両院で結論が食い違った法律案を、衆議院で再議決して国会全体の議決とする場合。そして、憲法改正の発議をする場合。これらのうち、はじめの四つについては、「出席議員」の3分の2で議決できるのに対して、憲法は、憲法改正についてだけは、さらに「総議員」の3分の2にハードルを上げている。

 それは、五つの局面のうち、憲法改正の発議が一番重たい問題であるからにほかならない。その際、衆議院だけでなく参議院の賛成が要求されているのも、五つの局面のうち憲法改正が格段に重要であり、決定に熟議を要するからである。これに対して、現在高唱されている憲法96条改正論は、ほかの四つの局面は放置したまま、憲法改正についてだけ、通常の立法なみの単純多数決にしようというのである。問題の軽重に照らして、いかに内容のチグハグな提案であるかは、これだけでも明らかであろう。

 それだけではない。96条改正を96条によって根拠付けるのは論理的に不可能だということが、第三の、そして最大の問題である。それは、硬性憲法を軟性憲法にする場合であっても、軟性憲法を硬性憲法にする場合であっても、変わりがない。

 たとえば、法律が法律として存在するのは、何故か。法律を制定する資格や手続きを定める規範が、論理的に先行して存在するからである。同様に、立法府である国会が、憲法改正を発議する資格をも得ているのは、憲法改正手続きを定めた96条が、論理的に先行しているからである。特別多数決による発議に加えて、国民投票による承認が必要、と定めたのも96条である。憲法改正が憲法改正として存在し得るとすれば、96条が論理的に先行して存在し、96条によって改正資格を与えられたものが、96条の改正手続きに基づいて憲法改正を行った結果である。

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 それでは、憲法改正条項たる96条を改正する権限は、何に根拠があり、誰に与えられているのだろうか。これが、現下の争点である。結論からいえば、憲法改正権者に、改正手続きを争う資格を与える規定を、憲法の中に見いだすことはできない。それは、サッカーのプレーヤーが、オフサイドのルールを変更する資格をもたないのと同じである。

 フォワード偏重のチームが優勝したければ、攻撃を阻むオフサイド・ルールを変更するのではなく、総合的なチーム力の強化を図るべきであろう。それでも、「ゲームのルール」それ自体を変更してまで勝利しようとするのであれば、それは、サッカーというゲームそのものに対する、反逆である。

 同様に、憲法改正条項を改正することは、憲法改正条項に先行する存在を打ち倒す行為である。打ち倒されるのは、憲法の根本をなす上位の規範であるか、それとも憲法制定者としての国民そのものかは、意見がわかれる。だが、いずれにせよ、立憲国家としての日本の根幹に対する、反逆であり「革命」にほかならない。打ち倒そうとしているのは、内閣総理大臣をはじめ多数の国会議員である。これは、立憲主義のゲームに参加している限り、護憲・改憲の立場の相違を超えて、協働して抑止されるべき事態であろう。

 なかなか憲法改正が実現しないので、からめ手から攻めているつもりかもしれないが、目の前に立ちはだかるのは、憲法秩序のなかで最も高い城壁である。憲法96条改正論が、それに気がついていないとすれば、そのこと自体、戦慄すべきことだといわざるを得ない。

    *

 いしかわけんじ 62年生まれ。旧東京都立大学教授を経て、03年から東京大学教授。著書に「自由と特権の距離 カール・シュミット『制度体保障』論・再考」など。

 【写真説明】

 石川健治さん

 【図】

 <グラフィック・米澤章憲>

 


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