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■シンポジウム「ドゥルーズ・知覚・身体」    samedi 22 decembre 2012 [■Pensée]

立教大学公開シンポジウム「ドゥルーズ・知覚・身体」(立教大学新座キャンパス 13:00~19:00)

問題提起:宇野邦一
報告:松本潤一郎「また消えるために―いくつもの召命」
    江川隆男「器官なき身体と超越的感性について」
    廣瀬純「革命的になる―不可能性の壁を屹立させ、それに強いられて逃走線を描出する。
         あるいは、可能性=商品と決別。」
    堀千晶「無知の砂漠―皮膚・補綴・ダンス」
    佐々木中「ジル・ドゥルーズにおける身体と政治―その美的決定(ドグマティック)

宇野邦一さんの陰気なお話をきいていて、その退屈さに耐えられず前半で席を立ちました。学者先生は物憂げに自分の学習経験を語るのが仕事なんでしょうか。ヴァンセンヌのドゥルーズとの精神的記憶を学生に話すのが教育なんでしょうか。


江川さんの身体論は、ドゥルーズの『スピノザ』の冒頭で言及されていることと同じ。
「スピノザは哲学者たちに<身体>という新しいモデルを提案する。身体をモデルに据えてみたまえ、『ひとは身体が何をなしうるかをしらないのだ……』と。無知を告げるこの断言には挑発が含まれている。私たちは意識やそれがくだす決定について、意思やそれがもたらす結果について語り、身体を動かす方法や、身体の情念[受動的情動]を制する方法については無数の議論をかさねながら―そのじつ身体が何をなしうるかは知りもしていない」
   (ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』 平凡社ライブラリー p33)

人を殴る行為は、道徳的(moral)な「善/悪」の問題で「悪い」と判断されるが、腕を回す身体にとって倫理的(ethics)な「よい/わるい」では身体の行為として「良い」のだ。つまり身体の快楽と斯くあるべしという抑圧的命令は相反するものなのだ。スピノザ、ニーチェ、ドゥルーズという反哲学(西洋理性)の系譜の対極にある廣松さんへの言及があったが、スピノザの身体論の起点である「よい/わるい」から廣松哲学への考察はややズレがあるようだが、ポンティの身体論とともにもう一度読んでみたい。


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▲立教大学新座キャンパスのチャペル。

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