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■開沼博「地方の論理」     samedi 8 septembre 2012 [■situation]

上智大学で行われた、社会学の開沼博・東京大学大学院学際情報学府博士課程在籍(なんか微妙な肩書)の、「地方の論理『フクシマ』から考える日本の未来」を聞く。

昨年の東京電力福島第一原子力発電所の爆破事故のあと、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』が発表され、福島=地方に林立した原発が意味する「地方-中央」の経済的な従属・拘束関係の歴史を現出させた。これは事故後まず読まなければならない必読書となった。吉岡斉氏の『原子力の社会史』が科学論の側面から原発の歴史を書いているのに対して、開沼氏の著作は福島に原発が建設される過程が、東京電力と国からの懐柔で行われていくことが丹念に書かれている。

そして1年後の今年3月に、福島県前知事で、原発増設を反対したために国策として造られた冤罪事件(ダム受注収賄事件)で逮捕された佐藤栄佐久氏との対談『地方の論理 フクシマから考える日本の未来』が出された。

『フクシマ論』が福島に建設された原子力発電所の過程を書いているのに対し、『地方の論理』は事故に遭遇し、一時は近隣諸県に避難していた住民が最終的に原子力発電所で働かなければならない現状を浮かび上がらせている。福島だけでなく疲弊した地方では、絶対に食い逸れることのない役場職員・教師らの下層に、経済活動とともに共通の倫理観をも支配する巨大資本・東京電力が深く浸透しているのだ。

誰でも知っていることだが、東日本大震災ではじめて東北の経済が壊滅したのではなく、原発三法で補助金塗れで自治機能を失っていた地方が、剥き出しの姿を晒け出しただけのことなのだ。

開沼さんのフィールドを調査する社会学の仕事を以て、原子力発電所で働く労働者・周辺住民の現状容認であり、反原発の態度をとっていない御用学者であるかのような言説があるようだが、それは誤謬である。科学者の真理がそのまま社会に通用しないことは3・11で顕著になった。それを使うのは一般社会の為政者の真理なのである。科学者の真理と生活者(利用するもの)の真理は別であり、「トランス・サイエンス」の部分は極めて政治的な領域なのであり、安易にそこに踏み込まないことが科学であり学問なのだ。そしてその指針となるものが学問の本義なのである。


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