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■バッハ「マタイ受難曲」        mercredi 5 mars 08 [■Cinéma et Musique]

バッハの「マタイ受難曲」を 初台の東京オペラシティコンサートホールで聴く。
合奏・管弦楽は「聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団」、指揮はゲオルク・クリストフ・ビラー。

信仰を持たない私だが、「マタイ受難曲」が至上の音楽だということは分かる。「マタイ」はほかの何とも別なのだ。
第一部の導入のコラールからバッハの世界に我々は引き込まれ、イエスの受難を追体験することになる。そしてその受難の追体験のなかで、イエスの受難は我々の原罪の裏返しなのだということを知ることになる。イエスの使徒と詰問されるペトロがそのことを否定するだけでなく(「そんな人は知らない」)、総督ピラトが別の囚人(バラバ)とイエスの何れかを釈放しようかと問うた時、「バラバ!」と絶叫するのは間違いなく我々なのだ。弟子に裏切り見捨てられ、民衆に十字架に架けろと断罪されるイエスの絶望と悲しみは筆舌に尽くしがたいことであり、今更ここで述べるまでもないことだろう。そのイエスの受難をもたらしたのが我々自身なのだというこの絶対的事実は、イエスの慈悲に甘え、安らぎを得んとする我々の欺瞞で覆い隠される。「マタイ」はこれを炙り出しているのだ。

それでも我々は「マタイ」を聴いて癒される。「エリ、エリ、ラマ、アサブダニ(わが神、なんぞわれを捨て賜いし?」とイエスが叫んで絶命しても、68番(78)のコラールを聴いて我々は安らかな気持ちに包まれる。信仰者がこの結末を如何に受け入れるのか私には分からないが、信仰を持たない私でもこの最終コラールは赦しの仮想体験を感じずにはいられない。

宗教概念にも増して、音楽技法にも疎いのだが、イエスを十字架に架けてしまった民衆の嘆きの場面(52番(61))、絶叫するのではなくアルトでの静かなアリアを反復させることにより、悲しみを幾重にも増していくことはバッハの時代どのように捉えられていたのだろう。この「反復」は今日の短絡で稚拙な感情表現しか出来ない感性よりも数倍「現代性」を感じてしまうのだが、どうだろう。

また、イエスがゴルゴダの丘に向かう57番(66)のアリアは、重い十字架を背負い精神的にも打ちひしがれているイエスの姿をヴィオラ・ダ・ガンバが見事に映像化していた。絶望したイエスが確かにそこにいた。

 

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